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フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1152年 - 1190年、皇帝戴冠:1155年)。父はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)、母はバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディト。歴代神聖ローマ皇帝の中においては有能で、後世では英雄とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれた。 なお、弟のライン宮中伯コンラート(1135年 - 1195年)の娘のアグネスはハインリヒ5世(バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる。 == 生涯 == 1147年の父の死によりシュヴァーベン大公位を継承、1152年に叔父のコンラート3世の指名で神聖ローマ皇帝に即位する。シュヴァーベンは従弟でコンラート3世の次男フリードリヒ4世に与えたが、1167年に彼が亡くなると息子のフリードリヒ5世に継承させた。 即位後は帝国の混乱を収拾するために、ドイツ諸侯に対しては特権を与え、帝国の宿敵で従弟でもあるヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ獅子公とは和解して、これを収めることに成功した。1154年にイタリア遠征を行ない、翌1155年に教皇ハドリアヌス4世から戴冠される。 しかし、その後はイタリア政策に力を注ぎ、そのために政策をめぐって教皇と1157年から対立、以後フリードリヒ1世は5回にわたるイタリア遠征を行なうこととなり、本国の統治に力を注げなくなる。1162年には自身に敵対するミラノに侵攻して同地を破壊、このため1165年に教皇アレクサンデル3世から破門される。1168年から北イタリアの諸都市がフリードリヒ1世のイタリア政策に不満をもってロンバルディア同盟を結成すると、フリードリヒ1世はこれに危機感を覚えて1174年に再びイタリア遠征を実施するが、これには国内でもハインリヒ獅子公をはじめ遠征反対論が多く、1176年にはレニャーノの戦いで大敗するという有様であった。このため1183年に、フリードリヒ1世は講和を結ばねばならなくなり、イタリア政策は事実上失敗に終わったのである。ちなみに愛称であるバルバロッサは赤髭を表すイタリア語であり、この皇帝がイタリアに注力した事を示すものである。 その後は国内政策に力を注ぎ、神聖ローマ帝国内の諸邦だけではなくポーランド王国、ボヘミア王国、ハンガリー王国に対しても行われた皇帝権威の主張(ただし、帝国が後援していたヴワディスワフ2世が、ポーランド王国の主権維持を主張する兄弟達と有力貴族、グニェズノ大司教によって失脚させられたためポーランドの属国化は失敗に終わった)、オーストリアの公国化、宿敵ハインリヒ獅子公の追放など、いずれも成功を収めている。また、シチリア王国と婚姻関係を結んで南イタリアに僅かに影響力を保持し、息子ハインリヒ6世のシチリア王位戴冠につなげている。 1189年、第3回十字軍の総司令として出征。翌年にイコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年6月、小アジア南東部、キリキアのサレフ河にて沐浴中に溺死するという意外な最期を遂げた(これには諸説があり、フリードリヒ1世は卒中のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため後述するような伝説が生まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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